1978年クラウンにもいた二刀流“長谷川一夫”

選手交代!ピッチャー長谷川

1978年7月11日 対日本ハム(後楽園球場)

1978年7月11日、場所は後楽園球場、日本ハム・ファイターズ対クラウンライター・ライオンズ戦。9回2アウトながらランナー1・3塁、得点は5対5の同点、一打サヨナラの場面でその時がおとずれます。

クラウンの根本監督はピッチャー交代を審判に告げます。3番手、池田弘に変えて「長谷川一夫」。根本監督は少し前からあおっていたものの本当に実行したのです。この長谷川選手、前年にロッテ・オリオンズから移籍してきた当時33歳の中堅選手。そして彼は外野手で一軍の公式戦では一度も登板経験がなかったのです。

大谷翔平がメジャーでも投打の二刀流で大活躍、今シーズンも大いに楽しませていただきました。今までの日本人メジャーリーガーはフィジカル的には劣るものの技術やスピードで対抗している感がありましたが、大谷選手はフィジカルもメジャー級で時代はかわったなと思います。

「巨人の星」の大リーグ養成ギブス(*大リーグ=メジャーリーグ)やうさぎ跳びなど血と汗と根性で成長する時代から、日本も遅ればせながらスポーツ医学が進歩し科学的・合理的なトレーニングや食事方法が浸透しつつあります。「浸透しつつ」というのは、今でも体罰やパワハラ、行き過ぎた上下関係が事件化したり、勝利至上主義が存在し、オリンピックの獲得メダル数にこだわるあたりは、まだスポーツ先進国とは言えないでしょうね。

なぜ外野手・長谷川がピッチャーに

時を1978年に戻します。当時のパ・リーグは前期と後期の2シーズン制で各優勝チームがプレーオフで勝ち上がったチームが日本シリーズに進出できます。前年1977年のクラウンは前期・後期ともに最下位、当然通年成績も最下位でした。

1978年より監督となった名将根本さんでも思うようにいかなかったのが1978年のクラウン。前期はAクラスにもう一歩というところで4位(6チーム中)。特に前期最終月の6月は12勝2敗2分で幕を閉じました。好調だった6月に打って変わって後期開幕からこの日まで、引き分け3つを挟んで6連敗中でした。原因はもともと非力だった投手陣の中で先発ローテションで勝てていたのは東尾だけ。特に前年から投手陣の主力になっていた左の切り札、永射が故障しその他のサウスポーは誰もいない状態です。
そこで白羽の矢が立ったのが左投げ左打ちの長谷川一夫外野手。

レジェンド二枚目俳優と同姓同名がきっかけでプロ野球入団

レジェンド二枚目俳優と同姓同名です。しかし全く関係ないわけではなく、埼玉の有名な投手(大宮工業高校)で1963年に当時の大毎(=千葉ロッテ)の親会社「大映」の専属俳優だった「長谷川一夫」と同姓同名だということで入団させたそうです。投手として入団したものの大成できず打者に転向し成功、1973年にはオールスター戦にも出場を果たします。

「いつでもマウンドに立つ準備はできている」と豪語していた長谷川選手。
自信満々(ラジオではそう思えました)にマウンドに向かう長谷川。
投球練習を済ませ、向かうバッターは日本ハム指名打者ロックレア。
セットポジションから運命の第一球!

運命の第一球

ラジオからは大騒ぎのアナウンサーの声
すぐにサヨナラ負けをしたことを悟りました。これで開幕7連敗。
プロはそんなに甘くない。
初球、たった一球で長谷川一夫の二刀流は幕を閉じたのです。
長谷川選手がマウンドに上がることはこの後一度もありませんでした。

大谷選手の活躍を見るにつけ、この日の出来事を思い出します。
今から44年前、たった一球だけの二刀流を実現した長谷川投手がいたことを…。

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