23勝14敗1S 1978年の東尾修

現役で生涯ライオンズを貫いたの東尾修

弱小球団の絶対エース

1968年、高卒ながらドラフト1位で西鉄ライオンズに入団し親会社が西鉄〜太平洋クラブ〜クラウンライターと度々変わるもライオンズに在籍、通算251勝で名球会入りした名投手。1995年には西武ライオンズの監督に就任し97・98年とパ・リーグを連覇しました。

入団翌年に「黒い霧事件」が勃発しライオンズは主力選手が抜け大幅に戦力が落ちましたが、高卒若手の東尾投手には大きな期待がかかり一軍で登板するチャンスが回ってきたのです。
太平洋クラブ時代の1975年には23勝をあげ初の最多勝利賞を獲得します。この時の登板試合数は51試合、当時の1チームの試合数が130試合なのでいかにフル回転で登板していたことがわかります。
翌76年は13勝、77年は11勝とエースとしては物足りない成績でした。しかし当時は弱小球団、両年ともに40試合以上の試合に登板しており強いチームにいれば1.5倍くらいの勝ち星をあげたと思います。

ヒーローインタビューをラジカセで録音

さてクラウンライター・ライオンズで最後の年、1978年、再び大活躍をします。私はこの年のことをよく覚えていますが、当時のプロ野球は通常同一カードを火水木3連戦して別のチームに金土日に3連戦そして月曜は(移動日:休日)のサイクルでした。この頃の東尾投手は3連戦に一度は先発するのです。ホームの試合で勝利すればお立ち台で東尾投手がヒーローインタビューに登場です。

私は中学生になって初めて買ったラジカセ(東芝アクタス・パラボラ)でラジオの実況中継を聴きながら勝が濃厚になったら録音の準備です。

「勝利投手の東尾修投手でーす」で始まるインタビュー。
歓声の中インタビューを受ける彼の口癖は必ず頭に「そっすねー」とつけること。
内容はほぼ覚えていません(笑)当時のテープの行方がわからず見つかってほしいんですけどね。
でも声ははっきり覚えています。当時パ・リーグの試合テレビ放送はほとんどありませんでした。

西武ライオンズでも大活躍した東尾投手は再び最多勝をとり、日本一になりMVPも獲得し圧倒的に露出も増えました。しかしクラウンライター時代の選手の生声を聞く機会は地元のヒーローインタビューくらいでした。1978年のクラウンライター・ライオンズ年間勝利数は51、東尾投手の勝利数は23。なんとチームの勝利数の半分以上を一人で稼いでいるのです。

人気のセ、実力のパの時代

1978年にはクラウンライター・ライオンズファンにとって誇らしい出来事がありました。常勝軍団だった読売ジャイアンツがV9という偉大な記録を残した後とって代わったのは上田監督率いる阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)が75年〜77年まで3連覇、74年のロッテ・オリオンズ(千葉ロッテ・マリーンズ)から4年連続でパ・リーグのチームが日本シリーズを制覇していました。
巨人戦は高視聴率コンテンツなので全試合が生放送なので人気はセ・リーグが圧倒的、よってこの頃は「人気のセ、実力のパ」と呼ばれていました。

1978年夢の祭典オールスターゲーム

そんな年の夢の祭典オールスターゲームに順調に勝ち星を積み上げる東尾修・土井正博(西武に残留)、真弓明信(阪神に移籍)の3名がクラウンから監督推薦で選ばれました。「人気のセ、実力のパ」を印象づけたのが1978年第2戦7月23日(甲子園球場)。この年はリーグ優勝に活躍した山田久志が先発、二番手はこの年25勝をあげ最多勝を獲得する鈴木啓示、そしてわれらが東尾修投手がそれぞれ3イニングを投げ完封リレー勝利。王、田淵、掛布らを要するオールセントラルを4安打に抑え込んだのです。

私は子供心に普段はライバルの山田投手・鈴木投手が心強い味方で我らが東尾投手が二人と並んで堂々とセ・リーグの強打者を圧倒する姿に惚れ惚れしたのを覚えています。ちなみに4番レフト土井選手、7番ショート真弓選手も先発オーダーにはいっています。

東尾投手はこの年最多勝争い自己タイの23勝をあげましたがライバルの鈴木啓示投手が25勝をあげて競り負けてしまいます。
彼が優勝争いをするようなチームにいたら30勝したと信じています。

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