インプリンティングされたイノキ・イズム
金曜8時のテレビ
インプリンティング(刷り込み)という現象があります。
動物は生まれ最初に動いて声を出すものを親と思い込む現象のことです。
1975年12月、私の心にアントニオ猪木がインプリントされた日でした。
1975年、私は10歳。当時家にはカラーテレビが1台。この時代、家で楽しむ最大の娯楽はテレビです。金曜8時といえば刑事ドラマ「太陽にほえろ」、NET(現テレビ朝日)のワールドプロレスイングをザッピングしながら見るのが常でした。プロ野球シーズンとなるとここにプロ野球中継が加わり父親がいるとナイターを観戦するのです。
運命のアントニオ猪木対ビル・ロビンソンが行われたのは記録によると1975年12月11日(蔵前国技館)。この試合は後日ワールドプロレスリングで放送されたのです。
当時の私はプロレス中継が好きでアントニオ猪木のファンではあったものの、そこまでではありませんでした。少年の強い憧れの象徴のようなものでした。
対戦相手ビル・ロビンソンとは誰?
この試合は力道山十三回忌の記念試合とされている大試合だったものの、対戦相手のビル・ロビンソンという選手の知識はありません。この試合の1週前の放送を偶然テレビ観戦した私は初めてアントニオ猪木のピンチを知ったのです。タッグマッチで登場しストロング小林&坂口征二と対戦し二人を圧倒、最後にはパートナーでダーテティファイトをするグレッグ・バレンタインをあしらうという強さを見せたのです。
そして実況の船橋アナウンサーが煽ること「イギリス・ランカシャーレスリング」「神様カール・ゴッチと同門」「蛇の穴」出身。私のロビンソンの知識は全く無く、まさか猪木が負けるのか?そんな不安がよぎりました。
そして運命のゴング
ロビンソンが1本目を先制
なんとなくワールドプロレスリングを見ていた私は初めて10分ほど前からテレビのチャンネルを合わせます。この試合は猪木が保持するNWFヘビー級タイトルマッチ60分3本勝負、両者の国家斉唱、タイトルマッチ宣言など試合前のセレモニーが終わり運命のゴングが鳴った!
猪木のテクニックと渡り合えるのは師であるカール・ゴッチだけだったがこのロビンソンは史上最高のテクニシャンだと感じた。猪木と同等、もしかしたらそれ以上か(10歳当時の感想)。
地味な中にも息を呑むようなテクニック合戦、猪木が仕掛けロビソンがそれを上回る切り返し技の応酬、そしてついにロビンソンの二つ名にもなっている人間風車ダブルアームスープレックスが炸裂、得意技を決められた焦りか猪木は雑に技を繰り出した(ようにみえた10歳の私)後、逆さ抑え込みでなんとロビンソンが1本目を先制した。試合開始から40分が過ぎて残り時間がすくない。猪木ピンチ。
時間切れになるとロビンソンの勝利
それでも激しい応酬が続いていると残り10分になり実況が焦りだすルール-上、このまま時間切れになるとロビンソンの勝利となりベルトが移動する。
焦る猪木にロビンソンはもう一つの大技ワンハンドバックブリーカーで追い詰める。
猪木もコブラツイスト、ドロップキック、エルボーで追い詰めるがロビンソンもしぶとい。
もうだめかと諦めた刹那ロープに振って帰ってきたところを伝家の宝刀「卍固め」
粘るロビンソンだったがなんと残り1分を切ったところでギブアップ。
アントニオ猪木がインプリンティングされた瞬間
猪木チルドレン爆誕
生まれてはじめて感動したのはこの直後
3本目のゴングがなりお互いエルボーの打ち合いになったところで時間切れのゴング。
しかし大歓声でほぼかき消される、その大歓声が次第に「延長〜延長〜」の大声援に変わっていく。
なんという試合をみてしまったのだろう。
私の脳裏には「アントニオ猪木」がインプリンティングされ猪木チルドレンとして数多くの友人に闘魂を伝導していくのです。
猪木よ永遠に
ちょうど1ヵ月前の2022年10月1日、アントニオ猪木氏は永眠しました。
私のアントニオ猪木は「プロレスラー・アントニオ猪木」でありリング外のことにはあまり関心がありません。
1998年4月4日の引退試合が私の「プロレスラー・アントニオ猪木」の本当の命日です。
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